父青柳宗平「人生100言」

<愛と結婚> ~若者へのメッセージ~


 二つ以上のものが一つになった心持ち・・・それが愛です。それは三つの違った姿をとります。恋愛と友愛とそして聖愛です。
 恋愛が人を己に奪わんとする態度であるのに対して、友愛は己を人に与えんとする態度です。恋愛の特色が甚だしく利己的であるのに対して、友愛のそれは極めて利他的であるのです。
 永久に変わらない男女の愛があったとしたら、それは必ず恋愛に伴って、もしくはそれを縁として、友愛の強い連鎖の力が働いているのです。


 雌雄の生殖は、雌雄の結合が必要条件です。二つのものは、それぞれ半分の存在に過ぎません。その二つが結合して、始めて全き一つになるのです。
 生命は、それ故に、雌雄に分離すると同時に分かれた二つが再び結びつくように、互いに他を求め異性を慕う性質をそれらに与えているのです。それがすなわち性欲であり、高等なものにおいては恋愛です。だから私どもは恋愛を通して神を見るのです。私どもが使命に忠実であればあるほど、恋愛の力に強くなければなりません。


 雌雄の生殖がより高い形をとればとるほど、それはいよいよ生保存から遠ざかって、生発展の目的に近づいて参ります。従ってそこでは、異性であるということが結合のすべての条件ではなくなります。好き嫌いの選択が必然両性の間に起こってくるのです。それほど生のための争いは激しさを増して、恋愛はより利己的になって参ります。
 しかしながら、利己の本質は、使命に対する責任の意識です。優れた個体であるほど利己の心に強いのです。私たちはそれに対して十分の尊敬を払わねばなりません。


 結婚の神髄は、創造への協力者を得ることです。人性の完成、聖き世界の建設・・・それが結婚の目的です。男でも女でも、独りである間は「半分」です。今一つの「半分」を恵まれることによって、はじめて「一人前」になるのです。
結婚が一生涯にただ一度しかないことや、貞操がただ一つの魂のみに捧げられるべきことなどは、まことに自明の事柄です。彼らにおいては、それはもはや窮屈な義務や旧式な道徳の問題ではありません。信念よりするおのづからなる要求であるのです。


 二つの魂を永遠につなぐには、富貴も無力です。名誉も無力です。それは信念による愛より他にはありません。理屈や条件でする結婚は、何度したって今度こそはと保証することができましょうか。きっと理想にかなった人が後から後から出てきます。それでは永久に夫をかえ妻を新たにする他はないでしょう。
 正しき意味の結婚はあくまでも、聖き愛によって結ばれねばなりません。信のなかにこそ豊かな愛があるのです。


<親子と家>


 真に人間的な親の愛は、一種の聖愛に他ならぬ。目覚めた親の目には、子供は決して彼自身の私有物としては映らない。子供に対して彼はただ、正しい機会を与えるだけの権利をもっているだけに過ぎない。
子に対するとき、親は絶対の債務者である。真に親に値するものは、その子の将来に希望を持ち、自ら多大の責任を感じつつ教養の労をいとわぬもののみである。
 一段高い立場からは、親子は兄弟に他ならぬ。彼の子は、実は大いなるものからの付託である。彼は私の利害を交えることなしに、ただ謹んで付託の責を果たすのみである。


 自立心を育てることが、教育の最後でなければならぬ。生の意味に対する十分な理解が伴わない場合、親子の愛は、とかく盲目的な溺愛にまで堕落する。溺愛から、成人しても自立できない多くの人々や様々な社会悪とが生み出される。私共はどこまでも母性愛の真意を見失ってはならぬ。子供は人類からの委託である。子供に対する愛情は、人類全体に対する同胞愛・・・聖愛・・・にまで目覚めねばならぬ。


 子に対する親の愛が生物のやや高等な段階から現れて、普遍的な本能現象であるのに対し、親に対する子のそれは、極めて高等な生物においてのみ現れる特殊的な、ある意味で真に人間的な現象である。
親を大切にし、その老後を安んずるということは、決して種族の維持保存だけで理解されることではない。親に対する本能愛のみで会得されることではない。友愛にさらに聖愛に浄化されることによって、本能愛は真の人間愛にまで向上する。
 道徳は秩序維持の方便ではなく、孝行は社会生活の一手段ではない。それは真に人性の綾織りの最も美しい模様の一つに他ならぬ。


 まことに孝は人間によって創められた生命芸術の最も尊い絶品であるのだ。孝は親を安んずるをもって本とする。独りあるとき、人は安んずべき二人の親をもち、妻あるいは夫を迎えるとき、人は養うべき四人の親を持つことを忘れてはならぬ。
 孝はしかしながら、単なる定着安静だけに止まらぬ。むしろそれは孝道の入門に他ならぬ。身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始め也。身を立て道を行い名を後世に揚げ、もって父母を顕わすは孝の終わりなり。
 実に味うべき言葉で、孝の神髄は実にここにあるのだ。

10
 祖先はその子孫の中に躍如として活きている。彼らは決して高大なる大理石の墓の下に、あるいは華麗な仏壇の中などに、静かに眠ることを悦ぶものではない。彼らの生んだ兄弟姉妹が、各々その材に応じてその志を伸べる所に、彼らと彼らの家の繁栄とがあるのである。家屋の大小や財産の有無の如きは、問題ではないのである。確固たる志の為には、あるいは利世済民の目的で、その家を売りその財産を利用することは、必ずしも不孝ではない。否、場合には常人のなし能わざる大孝をなしつつあることすらあるのだ。

11
 子は親の私有物ではない。子の材能は実に天より賦与されたものである。子それみずから如何ともしがたいものである。絶えずその傾向を精察し、彼をしてその材を存分に伸べしめるところに、親としての大任があるのである。些細な私見をさしはさんで、神聖なる子女の材能を妨げようとすることは、実に許すべからざる大罪である。

12
 もし嗣子が遠く家を離れ、兄弟姉妹互いに散在しなければならぬ場合には、そこに何の宗家分家の実が存続し得るか。兄の家が必ず根幹であり、弟妹の家が必ず枝葉であり得るには、現在の社会状態はあまりに複雑になっている。そこにはただ平等に親の家を中心とする兄の家、弟の家、姉の家、妹の家があるのみだ。彼らはただ純粋に血と情とによって結ばれている。そこにはただ兄弟姉妹としての親しみと、協力とがあるばかりだ。従っていわゆる嗣子のみが家屋を相続することは、全く意義を失っている。実生活は制度によって改まるという真理が、ここにも強く表れている。

13
 子供は親を養うために協力しなければならぬ。親はしかしながら、できる限り子供の厄介にならぬよう努めねばならぬ。それは親子疎遠になるということではない。
自殺してその子を戦場に送った烈母の心からである。
 親はその老後を養うに足るだけの資産を蓄えて、でき得る限り独立し、やむを得ざるに至って始めて資産と共にその子に頼るべきである。その家は子女協同の思い出多き団らんの場所となり、その家庭は子女の充分ある独立保証のために適当に準備さすべきものである。そしてそれは、それ以上の余裕(もしあるならば)と同様に、完全にその努めを果たした暁には、広く社会公益の事業の為に使用するべきである。それらは本来社会から彼らに託されたものであるからだ。

 

<朋友>

14
 馬牛はその血統をたずねる。しかし人はその交友を連想する。人と人との真の交渉であり、また文化的遺産として人生を豊かにするものは、実に精神的関係そのものだ。しかもこの人と人との精神的関係こそ即ち友をつくるものである。友は知己だ。伴侶だ。人生一人の友あるは実に全世界を所有するものだ。

15
 良き親は、兄弟をして善き友であらしめるように育てるものだ。骨肉の関係必ずしも頼むべきではない。ただその友情をこれ厚くすることを心がけねばならぬ。兄弟は天与の朋友だ。兄弟にして知己たるは実に人性の至福である。

16
 君臣は義によって結ばれる。場合によっては力によって結ばれる。しかもよくその関係を維持しうるものは、実に友情そのものである。制度的ないわゆる恩義の絆は比較的に断ち易い。その中に真に人間的な友情が豊かに綯い込まれるとき、それは始めて強靱いものとなってくる。恩義はとかく忘れられる。しかし友情はよく忘れたものを想い起こさせる。

17
 夫婦は本来異性の友だ。しかも最も親しい友だ。それは極めて純粋な精神的関係の上に結ばれるべきものだ。勿論それは種族維持という深い生物的基礎をもっている。子女を得ることが、それの一つの重大な任務であることは無論だ。しかも高い価値をもつ芸術の世界としての人性では、それは夫婦第一の任務ではない。子をつくることよりも自らをつくることが急務だ。
 目覚めた夫婦は生殖のための結合であるよりも、むしろ創造のための協力でなければならぬ。

18
 かく観じ去り観じ来るとき、友たることが如何に人生において重かつ大なる意義をもつものであることよ。真に人間的な関係は友である。友こそ真に魂と魂との結合である。友は第二の我れである。否我れそのものである。


<師弟>

19
 親子の関係そのものは、本来骨肉的、生物的関係で、直接種族の維持に発している。子を生むことにおいては、猫も犬も鳥も亀も人と異なる所はない。それは生物共通のもので、必ずしも人間だけのものではない。
 これに反して師弟の関係は真に人間的関係である。それは友愛を、さらに聖愛を基礎とし、文化の創造発展がそれの眼目であるのだ。

20
 もし親子をして真実人生の関係に活かしめようとするならば、親子は必然師弟でなければならぬ。子・・・種族の維持者・・・を育てんとする本能愛が、彼をして神の国の創造者たらしめんとする人間愛によて浄められねばならぬ。人生親子となって単なる動物的関係に止まるは実に口惜しきことではないか。すべからく親たるものは理想に生きねばならぬ。その子に高き意義を見出さねばならぬ。単なる骨肉の愛によって彼を撫育するに止まらず、崇高なる義務を意識して彼を教育することに務めねばならぬ。

21
 教育することにおいて親子が真の人間的関係になるのである。師弟たることにおいて親子は神の国の一組織にまで向上するのだ。況や家庭は実に人生最良の学園だ。教育の根底がすべてそこに据えられるのだ。子女の完き教養を、偏った今日の学校教育にのみ期待することは不可能だ。
 父母は、殊に母親は、すべからく天与の使命に目覚めねばならぬ。・・・人生最良の教育者はその親であることを、殊にその母親であることを。母の使命は誠に重い。しかし同時にそれは何という大きな誇りであることよ。母たるものはすべからく自らの修養を怠ってはならぬ。
 父母よく子女を賢ならしめ、父母よく子女を愚ならしむ。

22
 師弟は実に精神的親子であるのだ。真に人間的な親子であるのだ。愛によらずして師たり得るものがどこにあるか。愛によらずして弟子たり得るものがどこにあるか。教育が制度にまで化石し、神聖なるべき師弟が卑しむべき経済関係にまで堕落しようとしている今日においてもなおかつ左様である。

23
 人は一度死の床に横たわるとき、永久に残るものはただ彼の精神的交渉のみである。肉体を生むもののみが親であろうか。精神を生み育てるものこそ真の父母ではないか。血を継ぐものが必ずしも子ではない。志を継ぐものにして始めて真の子であるのだ。孔子の顔回・曽参・子貢等における、釈迦の迦葉・舎利仏・目鍵連等における、キリストのパウロ・ヨハネ・マタイ等における、近くは吉田松陰の久坂玄瑞・高杉晋作等における、彼らは
実に弟子においてその子を発見し、子に対する親の愛をもって彼らを教え導いたのである。何ぞ骨肉のみをもって子となさんやだ。骨肉の情にとらわれる者は凡夫凡婦である。明哲の士は妻なくしてよく多くの子女を得、夫なくして自由にその嗣を創造するのである。

24
 学校は石と材木とから出来てはいない。誠に生徒を愛する教師、誠に教師を慕う生徒・・・彼らの集まる所にのみ学校があるのだ。世間がいよいよ物質化し、教育がややもすれば営業化せんとするは、誠に教育にある者はすべからく重かつ大なるその使命に目覚めねばならぬ。人生また教育の如く崇高なるものがあろうか。


<職業>

25
 神の国の建設は人類究極の目的である。職業は実に個々人がこの大業に寄与するの道である。まことにその業務に忠実に、よく天賦の才を発揮することは、神への無上の奉仕であり、同胞に対する重き責務の遂行である。
日々の生活がやがて宗教なのである。真の宗教は必ずしも教会に教を説き、寺院に法を講ずることではない。

26
 誠によく神に奉仕する者は食おのずから乏しからず、被服必ず身を護るに足る。正しき利益と適当の俸給とが彼に恵まれる。かの暴利をむさぼり報酬によって労を厚薄にする者は、徒に生きることに急にしてかえってその霊を捨てている。職業の真義を忘れ自ら求めて神から離れているのである。彼らが食と不安とにまとわれるのもまた止むを得ないのだ。神は人と共にある。誠を尽くして何ぞ動かない者があろうか。

27
 水によらなければ魚も泳ぐことはできぬ。職業によらなければ人はその材を尽くすことはできぬ。職業の人における、実に魚の水におけるが如くに重い。職業を選ぶことは一生を選ぶことである。人はそれぞれ特殊の材能を持っている。それこそ生命の殿堂を築くべく委託された斧であり鉋である。職業選定の眼目は、実にその天賦の才能を見出すことである。

28
 胃が空虚になったとき私共はおのずから飢えを感じてくる。子女を生むべき状態に達するとき、おのずから私共に異性に対する思慕の情が湧いてくる。おお生命の神秘よ。彼の歩むべき道はおのずから彼の心に示される。私共がそれを感ずるとき、そこに好悪が現れる。好悪は実に天の啓示である。軽々しく見過ごしてはならぬ。好きこそものの上手なれ・・・好きは発達の象徴である。「誠に汝が好む道をとれ」それが職業選定の唯一の法則である。

29
 真に好まれる事柄は努められることなく、気づかれることなくおのずからなされている。天性の好悪は彼の不変の傾向である。「まず汝の欲するところをつかめよ。そして静かにそれを汝が既往について反省せよ」これが職業選定の秘訣である。

30
 職業の選定は直覚を必要とする。考慮を煩わすとき、そこに必ず誇りを生じてくる。師父に諮ることも有益だ。彼らはよく子弟の傾向を知っている。また師父になるものは子弟の性向に対して断えざる注意を払い、心を虚しうして彼らのために考えねばならぬ。職業の選定は万事本人を中心としてなされなければならぬ。


<職業と性>

31
 男には男の仕事があり、女には女の仕事がある。彼らがそれぞれの仕事を忠実に果たすとき、共通の生命がぐんぐんと伸びていく。

32
 男は本来労働者に作られている。めいめいに職業を持ち、社会という仕事場で根かぎり働くのが男の使命である。女は文化の温醸者として作られたのである。男という車輪の枢軸にそれが注がれ、それに円満な回転を与える油である。そして一つの車輪が役に立たなくなったとき、それに代わるべき新しいよりよい車輪の作り手なのである。男性のよき協力者であり、人類の継続者であることが女性の使命である。

33
 職業の種類ほどそれほど家庭の種類がある。共通な反面と、共通ならぬ ~しかも同様に重要な~ 反面とを主婦の仕事はもっている。
 家庭の仕事のこの共通ならぬ半面が無視されるとき、主婦の生活からすべての意義と生気とが奪われて、彼女たちは単なる機械的な女中や子守になってしまうのである。主婦の職業的自覚の必要がここにある。婦人が深い職業的意識を持ち得るとき、主婦の生活に元気が満ち、家庭が蘇る。かかる協力者に恵まれた夫はまた幸福だ。婦人の地位の向上は単なる経済的独立や、無理解な男性的労働によって達せられるものではない。

34
 婦人の職業は男子のそれとは全く意味を異にしていることを忘れてはならぬ。それは労働ではなくて、むしろ研究であり修養である。それはまた生活の方便でもない。いざという場合の用意でもありえない。それは全く婦人自身を活かしていくための方法だ。婦人の天職を全うするための方便だ。妻としてより良き夫の協力者であるためだ。母としてより良き子女の教育者であるためだ。主婦としてより賢明な家庭の司であるためだ。こうした教養のある婦人には、いざという場合の用意など何時でもできているのである。

35
 職業の選択は結婚まで行かねば嘘である。興味も傾向もない婦人の場合を除いては、結婚相手の職業は、その品性と同様に、彼女の結婚に対する一つの条件でなければならぬ。そこまで徹底して始めて婦人の生活が活きてき、婦人の職業が意味をもってくるのである。


<自然に学ぶ>

36
  人は自然に接するとき我にかえる。俗念を去って大自然に没入することに努めよ。草や木や虫や鳥や・・・は ~心の眼が開けると~ 一つ一つの文字である。活きた真理がその中から、私たちの読破を待っている。妙なる学びの道にいそしんで心の眼を開き、心ゆくまでに大自然の豊かな啓示を仰ぎたい。

37
 真に宇宙人生の相を見ようとする者は,全我を傾けてこれに当たるべきである。知識によってではなく、情意によって求め、さらに実行によって求めよ。

38
 博識を願う者は書籍によらねばならぬ。しかし真理を求める者はむしろその繋縛から逃れねばならぬ。知恵の泉は、生きた自然の観察と活きた社会の経験とからのみ湧き出でる。先人もみなこの道によったのだ。読むはただ泉を掘る鍬を鋭くするだけのものである。


<健康>

39
 病は多く心より起こる。心の持ち方一つで治るものなり。病気は戦争だ。身体の総帥は精神だ。精神の支配が健康の根本原理である。身体に重荷を負わすとも、心に重荷を負わするな。

40
 食い過ぎが汝の健康を損なうものであることを熟知している者よ、汝の魂の悔恨が如何に汝の健康を破壊するのであるか、また目に見えぬほど如何にその場合の多いかを直視せねばならぬ。

41
 霊的存在者は、その霊的活動が物的活動と同様に実在性を持っていることを忘れてはならぬ。身体をわが物と思うところに諸々の不幸が生ずるのである。

42
笑うとき心の中に何らの物思いもない。笑いの健康に益あることが知られる。


<運命>

43
 来るべき運命を落ち着いた心で迎えるだけの雅量がなくてはならぬ。運命を知ることは尊いことだ。必然と自由とを超越した運命を知ることが運命を開拓することだ。人は運命の子だ。運命は拓くべきものであり、畏るべきものではない。

44
 実在に過去もない、未来もない。一切が永劫の現在の展開だ。機を失わざること揺的を射るごとくにせよ。無精はすべての悪と、すべての病の源だ。それは人生第一の不徳である。一日一日と身体は古くなる。しかし生命は一日一日と新しくなる。

45
 人がその一つの計画をなしとげる時、その人の心の標高がそれだけ高められ、知見の範囲がそれだけ広められる。心の標高や知見の範囲と計画の実行との間には、微妙な関係があるのである。だから今あなたは、あなたの一生の計画は無論のこと、遠い将来の計画さえも予定することは不可能だ。それは人間の進歩ということを認めない盲目的な企てだ。あなたはあなたの一番手近な企てを実行すればそれでよい。その次になさねばならない事柄は、手近な企てが実行された時、間違いなくあなたに啓示されるのだ。人生の事業は、その時その時に啓示される道筋を一歩一歩と踏みしめて行くところに、最も完全に最も自由に成就されるのだ。


<捨てる生活>

46
 一切を得る道が一つある。ただ一切を捨てるのみ。
 捨てるとは執着しないことである。

47
 すべての思いをそのまま捨てよ。これだけはと執着するな。思いは果てしない悪魔の戯れじゃ。早く捨てるほど速く生命に入る。


48
 知にこだわる眼をもって見るが故に人が賢く見えるのだ。財にこだわる眼をもって対するが故に人の富に圧せられるのだ。「一切を捨てなさい」赤裸々の心になりなさい。あなたがすべての執着から離れたとき、人々は愛の化身としてあなたの前に立つだろう。


49
 富める物は富につながれ、知者は知恵につながれ、美人は美観の奴となる。総て持てる者は持てる物のためにつながれる。持たぬ者こそ、独立自由の強者である。


<感謝>

50
 その持てるわずかの物をも施し得る人あり、誠に豊かなる人かな。その持てる有り余る物すら施し得ぬ人あり、貧しき人なるかな。貧富別なし、ただその心証にあり。


51
 金を儲けたことを感謝する以上に、一桶の水をめぐまれたことを感謝せねばならぬ。真に感謝すべきことは、私たちの意識しない平凡事の中にある。

52
 恩を受けた人を、その短所によってそしることは何という忘恩であろう。
  一長あれば必ず一短がある。
  一短によって一長あるものをそしってはならぬ。
  一朝の怨みに多年の恩義を忘れてはならぬ。

53
 あり余る金を施されたものは喜ぶに違いない。しかしそれに対して感謝の心は持ち得ないかもしれぬ。一方、肉を削ぐ思いで施されたものは、かえって心苦しくさえ感じられる。しかも心からの感謝の湧き出でるのはそうした場合であろう。人を動かすものの根本は総てこちらの心持ち一つである。

54
 好意に報いるに好意をもってせよ。物質に報いるに物質をもってして可なり。されど物質に報いるに好意をもってするはさらに可なり。好意は物質に優れればなり。
しかし、物質によって好意をあらわすことあり。物質の背後にひろめる好意を認めることに意を持ちうべし。

55
 心が愉快であるときは、人に対しても親切になり、心が不愉快であるときは、人にも自然辛く当たる。人に優しくするときは、必ず心が楽しんでいる時であり、人に辛く当たるときは、必ず心が苦しんでいるときである。
だから我に辛く当たる人に対しては、その心の苦しみを想わねばならぬ。人に対して辛く当たろうとするときは、苦しめる自分の心を省みなければならぬ。

56
 あなたが最も悪しき境遇におかれ、しかも快くそれを受け入れて心から感謝を捧げうる時に、あなたは最も幸福である。


<読書>

57
 書籍は砥石だ。頭脳は鎌だ。読書によって鋭くされた頭脳をもって活きた自然と人生との中から活きた真理を刈り取らねばならぬ。

58
 誠の真理はその人にのみ啓示される。だから本を読む時は、よくよく考えねばならぬ。また、考えさせられるような本を読まねばならぬ。

59
 読むの第一義はそれによって知ることではなくて、啓発されることである。読むべき本は学者の著述ではなくて、天才の力作でなければならぬ。

60
 百冊の本を一回読むよりも、選ばれた十冊の本を十回読む方がよい。


<神の世界>

61
 神の世界には善もなく悪もない。ただ創造の悦びがあるのみだ。小善に執するが故に生の法悦を知らず、小我に執するが故に生死の繋縛を免れず。神に在るものには生もなく死もない。ただ永遠の悦びがあるのみだ。

62
 人はエデンの園より追われる者にあらず。エデンの園を造りてこれに入らんとする者なり。

63
 天に貯金せよ。天に貯金するとは、神の子としての徳を修めることである。

 

<生と死>

64
 死者も生存者も畢竟同一存在だ。生存者の実現する価値の世界の中に、死者の生命があるのだ。死者を敬して生ける者に仕えるがごとくすること、それはやがて価値の尊厳に対する賛美の表現である。死者をもって一死体とみなしている動物的状態に比べて、それはどんなに美しい世界であるだろう。生活意義はただこの美しき世界の実現創造にあるのだ。美の世界、価値の世界、それが我々のすべてである。

65
 動物より人間への限りない過去の推移を私共は、生まれる前において繰り返さねばならぬのみならず、生まれた後においてさらに私共は、野蛮人より文化人への・・・人間としての発展の経歴をも辿らねばならぬ。これらの長い道程が、ケシ粒にも過ぎない受精細胞の中に、目に見えぬ旋律として秘められている。

66
 命のために物を壊すとも、物のために命を損なうことなかれ。道のために命を失うとも、命のために道を損なうことなかれ。


<自己の改造>

67
 自覚をともなって真人生が開かれるのだ。悔恨は生みの苦しみに他ならぬ。遺伝の上に一歩を踏み出そうとする努力なのだ。この努力によって踏み出された一歩一歩が価値の世界、即ち真人生が展開するのだ。自覚によって一切が平等化されるのだ。人生の価値は創造の努力に比例する。遺伝も運命も、すべての自然的条件が、そこでは全く無価値であるのだ。

68
 痛切に私たちは慚愧せねばならぬ。と同時にこの慚愧を心から祝福することを忘れてはならぬ。真人生は平等だ。いと高き誉れが私たちの努力の上に恵まれているのだ。自己の改造!何という祝福された大芸術が私共に恵まれていることだろう。

69
 汝の仕事は、汝自身を立派な人間につくりあげることである。金の問題でもない。時間の問題でもない。万事は努力の問題である。

70
 どれほど熟慮しても、人生に失敗は避けられないものである。大切なことは、失敗した時への対処を誤らないことだ。失敗する時というのは、必ず心が平穏でない時である。だからこの時反射的に動き回れば、さらに状況は悪化する。静かにことの推移に委ね、心が定まるのを待つのが失敗に処する道である。


<日々の心得>

71
 理を求める者には説くべし。愛を求める者は抱くべし。一見理をもとめるが如くして実は愛に飢えたる人の多きに注意すべし。

72
 人を他人だと思うとき恐怖がある。人を自分だと思うとき勇気がある。親しめば怖れなく、求めないものが最も強い。

73
 愛がある所にはすべての物に光がある。温かみがある。人の群れにうるささを感じるのは、まだまだ小さい自分を捨て得ぬからだ。人々を兄弟だと思い得ぬからだ。

74
 すべての悪が必ずそれ自らを肯定すべき理由を持っている。私共は悪人を心から憎んではならぬ。

75
 腹を立てるな。悪口を言うな。当たって砕けよ。人をして術数を弄せしめるのは己の至誠が足らぬからだ。

76
 汝の憎むところの者が失敗した時よりも、汝が汝の憎むところの者以上に成功した時よりも、汝が汝の憎むところの者と和らぎたる時、汝は心からの満足を感じ得る。

77
 人は身にも心にも不自然なことがあってはならぬ。人に接するに遠慮がちになるのは不自然である。

78
 言葉で人を服従させようとすることは危ういことであり、かえって反抗を招くことになる。人を従わすものは徳行のみである。

79
 信用を大切にせよ。財産が無いことや無名であることなど何で憂える必要があろう。ただ徳が無いことのみを憂えねばならぬ。

80
 謙虚な人は世の中を広くわたる人である。高慢な人は世の中を狭くわたる人である。

81
 学問の目的は、事物に対して公正な判断を下し、健全なる理想を立てて、これを実現する努力を生むべき知見を得るにある。

82
 事実は不変だ。解釈はまちまちだ。解釈の研究に没頭するよりも、不変の事実そのものを直視すべきである。事実の研究こそ真の学問だ。真の知恵と愉悦とがそこから生まれてくる。

83
 人の説のみを学び、人にのみ教えられることの危険を思え。真理は常に独学者 ~少なくともある意味における~ の手にあるのだ。

84
 直観を得ようとするのならば、平静な心を持たねばならぬ。いろいろと考えて心を乱してはならない。鏡の様な心境に至れば、自ずからことの真相は見えてくる。平生の心の用い方が大切である。

85
 我々の物質上における小さなしかも数多い浪費が戒められている。しかし精神上における浪費は、それが目に見えぬだけにさらに大きいものである。我々の諸々の思量の大部分がそうなのだ。

86
 人生行路は旅のようなものである。わずか一キロの道を行くにも山あり川あり、さらに幾多の障碍がある。あるいはこれに順応し、あるいはこれを征服して,回り回って初めて目的地に達する。達してみれば、それまでの順応も結局は征服であり、迂回もまた直行であったことを知る。人生はそのようなものである。

87
 善を論ずることにおいては人に劣るとも、善を行うことにおいては人に劣る事なかれ。

88
 拾う者は捨てる者より幸せである。

89
 祖先の家を大切にせよ。しかしそれは、石と材木とからできているのではない。精神と肉体とからできているのである。
 
90
 後輩が先輩に優れるのは、先輩の経験を利用してその過ちを繰り返さないからである。後生に生まれて先人の経験を利用しないのは愚者というべきである。

91
 憎しみや恨みの根底には必ず「わがまま」が横たわっている。「わがまま」を去れ。さらば恨みも憎しみも消えるだろう。

92
「いくら」使ったが問題ではない。「いかに」使ったが問題だ。

93
 古い制度を破るには、まずそれに順応することを学ばねばならぬ。そして徐々にこれが改造に着手するのが順路である。世を率いる英才の不遇の一生をみるに、ただこの処世の秘則を忘れていたのに因ることが多いのを発見する。率いる者となるには、まず率いられることから始めねばならぬ。

94
 誰もができるべきはずで、しかも実際はできないことを実行するところに、真の偉大がある。

95
 知恵においては、偉人も凡人も大した変わりはない。ただ知恵を活用する胆力において、偉人と凡人とが別れるのだ。しかもこの胆力は相当に修養のできるものである。

96
 人と接するにその賢愚を思うことなかれ。ただその人たるを思え。

97
 知識の泉が自己の中に湧き出る時、はじめて人を教えることができる。悦びの泉があなた自身の中に涌き出ずる時、はじめてあなたは人に道を説くことができる。
 
98
  理想は到着点であって出発点ではない。正や善を初歩の人に求めるのは、不可能を強いるものである。人の前で理屈を言うな。ただ汝の体験を語れ。

99
 人生の事業はただ一身を犠牲にする決心の有無によるのみ。

 

<祈り>

100
 何という悔い多い身であろう。私には富も名も何の誘惑も感ぜせしめぬ。しかしながら、明晰な頭脳の人を見るとき、私は強い自憐と羨望とを感ぜせしめられるのだ。決断が弱いのも、念が入り過ぎるのも、あらゆる欠点が不聡明に原因している。私は自分の不聡明を恥じると同時に、自分を超越した力を恨み、運命を悲しむ。過失の後の強い悔恨は、私の頭と胸とを暗黒にしてしまう。すべての力と命とが私から抜け出て、一時は屍のような絶望に陥れられるのだ。
 しかしながら今日は思った。自己の改造は人間の特性である。私の今日はすべての過去に条件づけられている。賢も愚も遺伝に他ならぬ。人間が遺伝によって行為している間、そこは永久に物力の世界である。人生ではない。真の人生は自覚と共に始まるのだ。自覚以前は、賢も愚も畢竟自然の力の差異に他ならぬ。失望してはならぬ。
 すべての高慢と無慈悲とが、自ら「えらい」と思う心から起こります。どうぞ私をして自分の愚かさを、自分の小ささを覚らせてください。そして心から御恵みを感謝することをお許しください。御恵みによって清められ、御恵みによって温められたい。そして、その御恵みに触れた清く温かい心をもって人々に接したい。それが唯一の私の願いです。

 

         編集後記

 4年前、「我が父 青柳宗平 人と思想」を編集した際、父の著作「伸びゆく生命」について次のように紹介した。

 すなわち、「著者の哲学、宗教研究の集大成ともいえる一冊であり、広範に及ぶその内容は、難解ながらも読み応えのある一冊であり、著者の思想をより深く知りたい方には、是非読んで頂きたい」と。

 その後、私自身数回にわたり読み返してみたが、その難解さは変わらなかった。しかし、本書にちりばめられている父の言葉には、強く心惹かれるものが多々あった。そこで、そのような言葉を、私なりにカテゴリー分けしまとめてみたのが本書である。
 日々の忙しさの中で、「人生いかに生きるか」といった重要な命題を考える余裕もない私たちであるが、父のことばの中から、一つでもヒントを見つけて頂ければ嬉しい限りである。

   平成27年12月29日(73歳の誕生日にて)
          青柳 亀平