ごあいさつ
光陰矢のごとしと申しますが、これは歳をとる毎に強く感じられるようです。卒寿の記念として拙い私の短歌に加え、自分史の一端をごくかいつまんで冊子にまとめ発刊させて頂きましたのが、つい昨日のように感じられます。 その後お陰様で、元気に毎日を送らせて頂いており、この度、無事白寿を迎える運びとなりました。
そこで、何か記念になるものをと考えてみましたが、格段変わったアイディアも浮かびませんので、前回同様のパターンですが、その後の短歌と、前回よりは少し詳しい自分史をまとめてみました。
ご一読下されば幸いに存じます。
平成16年1月18日
青 柳 雪 子
おいたち
明治三十九年(一九〇六)一月十八日、私は島根県美濃郡二条村大字柏原(現在の益田市柏原)に生を受けました。父は豊田友吉(豊田家第八代)、母はイチで、その三女として育ちました。
物心ついた時、私の家族には曾祖母、祖父、祖母、伯母、父と母、十歳上の姉、三歳上の兄、三歳下の弟、私を含めて十人がいました。家は大きな萱葺きで、祖父母だけが廊下続きの別棟に住んでいました、
父母は農業を生業としていました。姉は十キロほど離れた伯母の家に時々裁縫を習いに行くので、とかく留守.がちでした。曾祖母と出戻りの伯母は床に就いていることが多かったのですが、いつのまにか亡くなっており、その人たちのことを私はほとんど覚えていません。
兄弟の中でも私はとりわけのやんちゃ娘だったようで、兄や弟と喧嘩しても決して負けてはいませんでした。
小学校に上がったころ、クラスの中に松本彦太という腕白小僧がいて、いつも女生徒を泣かせていましたが、ある時、私はこの腕自小僧の衿首をつかんで引き倒し、馬乗りになって後ろ首にしたたかげんこを食らわせてやったことを今でも小気味よく覚えています。
そしてまた何事も一番にならなければ気のすまない私でしたが、ある時、岡崎ナツノさんという子が一番になったことで大泣きしたようです。その一件で私は一家の笑い物になり、時々そのことで家族から笑われるので、とても悔しい思いをしました。
小学校に上るようになっても、私は夜尿症の癖が直りませんでした。母は他の兄弟を連れて時々実家に行くことがあっても、いつも私を家に残しました。実家は母の妹夫婦の世帯でしたが、母は私の夜尿症のことを遠慮したのでしょう。このことでも私はとても悔しい思いをしました。
別棟に住んでいた祖父母からは格別に可愛がられていて、祖父母の部屋に行った時はよく二人の間に寝かせてもらうことがありました。そんな時、祖母がいろいろな話を聞かせてくれました。
父には兄がいて、歌を詠む才色兼備のお嫁さんをもらっていましたが、この人が家を出てしまってからは伯父は気が狂い、一時は座敷牢に入れられていたとのことです。そんな話をはじめ、母の実家である須川家に養子として入っていた父が自分のわがままから出てしまい、それについて母も出てしまったことなど、私はいろいろなことを耳にしました。
今は田圃になっている向かいの場所に両親は家を建てていたところ、火災で焼けてしまい、その時に今住んでいる家に帰ってきて私が生まれたこと、気の狂った伯父が、この子が好きだと言って私を抱え回し、皆がはらはらして取り上げたこと、この伯父は私の生まれた年の秋に亡くなり、私の父母が豊田家を継ぐようになったことなど、祖母は豊田家にまつわる話をしてくれたのです。 貧しいけれど、昔から豊田家は庄屋の家柄だったとのことです。祖父が戸長(村長のことらしい)をしていた時代、実印を盗まれて保証人にされ、大借金を背負わされたと聞きました。当時は豪農であった町原家から祖父の先妻(私に話を聞かせてくれた祖母は後添え)が嫁いでこられたのは、旧家だったからとのことです。
若い時、父は警察に勤めていました。そういえば、昔は文盲が多かったので、父はよく近所の人が持ってくる手紙を読んであげたり書いてあげたりしていました。確かに私の家は子供心にも貧乏がわかり、母は実家に赴いては、よく物を貰ってくるようでした。
父はとても人好きする性格で、お酒も好きでしたから、よく友人を家に連れてきました。母は苦しい家計の中からお客をもてなさねばなりませんでしたが、時には機嫌の悪い顔をしたのでしょう。客を帰すなり、父は母に向かって「お前は目先の欲が強い奴じゃあ」と怒鳴るなり、殴る蹴るの大虐待です。
「お母さん、早く逃げて、逃げて」と、私たち三人の子供は母の前に立ち塞がりました。しかし、母はうつむいたまま口答え一つするでもなく、身動きもせずに、父のなすがままにまかせ、私たち子供はわんわん泣くばかりでした。こんなことがしばしばありました。
芋飯、菜飯、大根飯しか食べられないこともありました。田を作ったり、養蚕もしていたのに、なぜ食べる物に困らなければならなかったのか、私は今もよくわかりません。
このような父でしたが、母が風邪などで床に就いた時は、とても優しくて親切にしていました。
夜尿症
私の夜尿症は忙しい母を随分苦しめたようです。その頃のことを今でもよく覚えています。いい気持になって、おしっこをし終わったころ、お尻が濡れて、「あっ、また、してしまった」と気付くのです。兄弟から「夜ばれたれ」と馬鹿にされるのは我慢できませんから、学校に行く兄や弟が家を出るまで私は床を離れませんでした。そして、おそるおそる母に夜尿のことを告げました。母は「またかね」と答えるだけで、叱るでもなく、布団に薬缶の湯をしばらく流したあと、それを日に干すのでした。
ある日、ちようど姉の帰っている時のことでした。母は線香ともぐさを用意しておいて、姉や兄、弟に手伝わせて、素早く私をうつぶせにさせ、三人に私の四本の手足を持たせて、母が私の背に馬乗りになり、泣きわめく私を組み伏せてお尻の仙骨の辺りに五つか六つお灸をすえたのです。これが済んで解き放たれるや否や、怒った私は線香の火を恐ろしい剣幕で兄弟たちに差しつけるのでした。しかし、それっきり私の夜尿は止まりました。
後年私は医者として夜尿の人と対面していた時、私の受けたお灸のツボを母に教えてもらっておかなかったのは惜しいことだと残念に思ったことでした。
祖母の話
私は家族の手を焼いたやんちゃ娘でしたが、祖父母はいつも私を特別に可愛がってくれたようでした。お風呂はよく祖父母がいる別棟でとりました。祖母はある時、曾祖父についてこんな話もしてくれました。
曾祖父は大変に気性の勝った人で、若い時、津和野城下のきれいな士族の娘さんを馬に乗って奪ってきたそうです。
その時は特に関心もなく面白がって聞き流していただけでしたが、その士族の娘さんの子が祖父のはずです。今となって思えぱ、確かにこの祖父はそれまで見た誰よりも風采が立派に見えました。上品で、面長な顔立ちで、スマートで、外に出る時はいっも黒の山高帽を被り、ステッキをついていました。私の物心がついたころには、父はすでに前頭が禿げていましたが、この「おじいさま」は白髪ながら禿げてはいませんでした。
私はこの祖父に連れられてよく村の祭りに行き、駄菓子を買ってもらっては喜んでいました。私の祖父には子分が三人いて、何か行事があれば必ずやってきて手伝ってくれました。その人たちを祖父や祖母は「久吉」とか「卯吉」とか呼び捨てにしていました。
時折、父が「今どき、お父さまお母さまのように、人を呼び捨てにするものではない」とつぶやくのを聞いたことがあります。私たち孫は父母を「おとうさん、おかあさん」と呼ぶのに、なぜだか、祖父母、曾祖母には「さま」をつけるのが習わしでした。
ハレー彗星
ある晩、私はこの祖母と縁側に腰かけていました。ふと空を見ると、西の空で異様な光景を目にして驚きました。それは子どもの頭ほどの大きさで、頂点には輝くものがあり、ちょうど「がんぜき」のように長い尾をひいて光っていたのです。
「おばあさま、あれは何、何!」と私は声を上げました。祖母もびっくりして空を見上げ、皆を呼び集めました。「これが彗星だ。今年は疫病が流行ったり、また大戦争が起こるかもしれない!」と祖母が言いました。
その夜から、うす気味の悪い思いをしながら、四、五日ほど毎晩この星を見ていましたが、次第に山の端に近くなって、そのうちに西の山に隠れてしまいました。
これが有名なハレー彗星でした。いつの頃だっただろうかと百科事典で調べてみると、彗星が現れたのは一九一〇年四月二十日午前五時でしたから、私が四歳の時になります。彗星にはいろいろありますが、ハレー彗星は周期七六・〇三年という楕円の軌道で、太陽と至近距離になった時点で一番よく見えるということですから、幸いにもこの時がそれに当たっていたのでしょう。
見かけ上の尾の長さは視角一二〇度もあって、人を驚かせたということです。次はこの年から七十六年後の昭和六十一年(一九八六年)(ですから、私は二度目のハレー彗星を見られたはずですが、昭和年代のそれを自分の目で見たという人の話を聞いたことはありません。
母の死
私が小学三年生の八歳の七月五日、母は産後の出血多量のために亡くなりました。現代の医学ならば、十分に助けることができたでしょうに。それまで母の涙というものを見たことのない私でしたが、母は三人の子を枕元に呼んで「私はお前たちと別れるのが一番辛い」と苦しい息のもとで、さめざめと泣きました。
この一件は私の心に今日まで悲しい思い出として残っています。一番の母想いだった兄は、それからも時々母を思い出しては泣いていました。葬式の日、枢を野辺に送る時、田圃で蛙が鳴いていました。私はいまもその時のことを思い浮かべると涙ぐんでしまいます。その後の私の一生を通して、この時のような悲しみは一度もなかったように思います。
貧乏な暮らしや父の酒乱にも黙ってじっと堪えていた母。私は辛いことがあれば、この母の姿を思い浮かべ、これしきのこと私は堪えねばならぬ、と常に自分を奮い立たせてきました。
母の在世中、家が貧しいことはわかっていましたが、私たち子供はまことに幸福で楽しい日々を過ごしていました、近所の子供たちとは野山や田圃で日の暮れるまでよく遊び、とても楽しかったものです。ところが、母が亡くなってからというもの、家の中はまったく火が消えたように暗くなってしまいました。
姉は裁縫習いをやめて家事に専念し、母の代わりとなって、私たち幼い兄弟の世話をいろいろするようになりました。
父の再婚
父はその年のうちに、兄と同年の男の子を連れた女性と再婚し、私たちはその人をお義母さんと呼ぶようになりました。
翌大正四年、姉は十九歳になっていました。二度目の母が来て、姉はどうしても早く嫁がねばならなくなりました。農作業をしたことのない姉は、農家には行きたくありませんでしたが、母のかかりつけの医者をしていた親戚の仲介と父のすすめで、姉は私が後に養われることになる町原家の親戚で、豊かで大きな農家へ嫁がされました。嫁入りの日、姉は何度も泣いたために、化粧を幾度もし直したことを覚えています。しかし、半月も経たないうちに、姉は家に戻ってきました。
家庭の空気は前とすっかり変わってしまい、以後、私たち兄弟は本当に惨めでした。私たち子供の顔は、皆暗いものになってしまいました。
町原家の養女に
そんなある時、町原のおじさんが「蓄音機を買ってきたから聞かせてあげよう」と、下男の人に蓄音機を背負わせて持ってきて聴かせてくださいました。大きなラッパのついた三十センチ四方くらいの箱から面白い童謡が流れてくるのを私たちは喜んで聴き入りました。
演奏が終わったところで、おじさんは並んで座っている私ども三人の子供を眺め、私の兄を見て、「この子を私がもらっていきましょう」と言いました。父は「この子はこの家の跡継ぎだから、あげられませんよ」と答えて、「それでは、この女の子を」ということになり、私が町原へもらわれていくことになりました。
町原へ行くのは学期のきりがちょうどよい時でいいということになり、翌年の三月、つまり私が十歳の春、姉に連れられて家を出ることになりました。町原は父の母(私の祖母)の実家で、姉は何度も出入りをしていましたが、私は一度も行ったことのない家でした。
父は「お前は一番幸せ者じゃよ。町原は大金持ち。何でも好きな物が買ってもらえるし、美味しいお菓子も食べさせてもらえる。ただ、二人の子どもの遊び相手をしておればいいのだよ」と言いました、でも私は初めてわが家を出ていくのが不安で悲しかったのです。家が見えなくなるまで振り返りながら泣き泣き出て行きました。
町原家の長い塀を巡り恐る恐る大きな門に入ると、皆さんが「さあ、お上がり、よく来ました」と出てこられました。私は姉と玄関の狭い縁を踏んで部屋に上がりました。先日、蓄音機を持って来たおじさん夫妻をはじめ町原の家族中が座って迎えて下さいました。
おじさんからは「これからあんたはこの家の子になるんだよ。そこのお婆さんを、お祖母様(私の名は、このお祖母様の「ゆき」をいただいて「雪子」とつけられたということを話されました。この話は以前、生家の祖母からも聞かされたことがありました)、私をお父様、(下座に坐っておられた優しそうな)おばさんをお母様、(その人と並んだ少し若いきれいなおばさんを)叔母様、(お父様なる人と並んだ色白の少し若いおじさんを)叔父様と呼びなさい」と言われました。この他に八十歳位のお婆さん(義父の祖母)が、離れ屋の二階に一人で住んでいて、この方にも紹介されました。
それから女中さん達にも紹介されました。女中さんは、頭の四十歳位の人と若い娘さん達が四人いて、「これから豊田の子を一人家にもらったから、お前達はこの子を雪坊様と呼ぶのだよ」と言い渡されました。その時は紹介されなかったのですが、ほかに去年蓄音機を背負って柏原の私の生家に来た須山久吉という青年もいました。こうして私の町原家での第一日が始まったのです。
その夜、私と姉は曾祖母様と同じ離れの六畳で寝ました。朝、目を覚ましてみると姉の姿は見えませんでした。お祖母様に聞くと、姉は「あの子は私について帰ると言うかもしれないから、目が覚めないうちにここを出ます」と言って帰ったと聞かされ、取りつく島もなく淋しくなり、しばらくぼんやりしていました。そうしているうちに町原の二人の子どもたちも起きてきて、一緒に遊ぶようになりました。
私は前日の夕食から家族の一員として、女中さん達とは別の部屋で食事をとるようになりました。四月八日になると学校が始まり、私は山口県呵武郡下小川尋常高等小学校第五学年に入学しました。校長は斉藤先生といいました。小学校まではニキロ足らずあり、冬、雪の日はよく下駄の間に雪が詰まって、鼻緒を切らして足袋素足で帰ることもありました。そんな時、足を洗って下駄の鼻緒をたて直して下さるのは、きれいでお母様より少し若い松子叔母様でした。(この叔母様と私は後に深縁となりました)
私が小川の小学校を卒業した年に、六歳下の町原家の長女で体の弱い富子さんが小学校に上がることになりました。町原の家がある下小川は山口県ですが、下小川尋常高等小学校への半分の距離もないところに島根県美濃郡二条村立桂ヶ平尋常高等小学校があるので、私も富子さんのお守り役としてそこの高等小学校に入ることになりました。
この頃になると、富子さんと一緒に遊ぶことに熱中していると、町原のお父様が「雪子もそんなに遊んでばかりいないで、子どもの部屋くらい掃除しなさい」とか、食事がすむと「お膳くらい下げなさい」等と言われるようになりました。それまで掃除などは女中さんがしてくれる仕事だと思っていましたが、自分も掃除をしなければと気付いて、以後、私は何事でも人から言われてからするようなことは絶対にないように気をまわして、何でも進んでするようにしました。そして、子どもたちと遊びたい等と一切思わないようにしました。そうしたところ、「まあ、雪子は何と気の利く子だこと」と町原家中の誰もが私にとても好意を持ってくれるようになりました。
でも私も時にはむっとすることもありました。それは寒冬の夜のことでした。炬燵に入っていた富子さんが、水が欲しくなったのでしょう。「姉様〈ねえさま〉、水」(私のことを町原の子どもは姉様と呼んでいました)と言ったのです。そのくらい自分で飲みに行ったらいいのに。しかし、私は今はこの家に養われている身分です。つと立って、長い長い冷たい廊下の板の間を踏み、コップに水を汲んできてあげました。この時、私の自尊心がむらむらと起こったのです。
以前私の父は「お前は幸せ者だ、財産家にもらわれた」などと言っていましたが、本当は豊田の家がのっぴきならなくなって、山も田畑も全て町原家のものにして、豊田の借財の始末をつけてもらい、その一環として私も町原家に養われるようになったこと、町原の四歳の子が疫病で亡くなったので、この家で今「お父様」と呼ばれている人が「できれば男の子が欲しい」と言ったというようなことも次第にわかるようになっていました。
「よーし、私は高等小学校を卒業したら二年程お礼奏公をして、後は自由にさせてもらうことにしよう。勉強して看護婦になって独立しよう」そうした想いが日に日に募ってきました。そして、高等小学校を卒業する何ヶ月か前のこと、私はその心の内をお父様に打ち明けたのです。ところがどうしたことか、「女学校に行け。少し勉強すれば津和野高等女学校の二年に入れる」と言われたのです。そのことを私が喜ばないはずはありません。夜十一時まで夢中になって行灯の下で勉強しました。籍も町原家に入れてくれるという話でした。そして、見事合格し、私は女学校に持っていく物全部に町原家の姓を書き入れることにしました。
津和野高等女学校入学
この年、私と同じように高等小学校から津和野高女の二年生に受験する人がもう一人いましたが、二人とも合格して入学することができました。その人は石橋アヤ子さんという人でした。
確か高女二年の二学期頃だったでしょうか。これまでの英語の先生とは違い、如何にも優秀な品格を持ち、それでいて飛びっきり授業が冴え、真に教え方が丁寧で上手な「青柳先生」がわが校に赴任されました。三学年の担任で、私たち二年生には英語と修身を教えてくださいましたが、津和野高女の先生としてはとても異色の先生でした。
この年の秋、町原家では若夫掃が子供二人を連れて東京に旅行されたのですが、この旅行から帰るなりお父様が私に「雪子、お前は看護婦になりたいなんて言っていたが、いっそのこと、医者になれ」とおっしゃいました。私はびっくりしました。女性で医者になどなれようものとは、考えたこともなかったからです。
お父様は早速津和野高女に行き、校長先生と相談をして、「津和野高女からでは医者の学校に入るのは無理らしいから、山口高女に来年四月、試験を受けて入り直しなさい。今の成績なら山口高女の三年に入れると校長がおっしゃたのだよ」と話して下さいました。そして、私は津和野高女三学年になった四月に、山口高等女学校の試験を受けて入学させてもらいました。
山口高等女学校編入と東京女子医学専門学校受験
当時、山口高女は湯田にあり、学校の寄宿舎に入れてもらいました。そこで現在もなお肉親以上と言っていいほど親しくさせていただいている、青木初子さん(当時田辺初子さん)と出会うことになりました。彼女はその後、お父様のご転任で福岡高女に転校、同校を卒業して東京女子医学専門学校(東京女子医専)を受験されました。私も大正十二年に山口高女を卒業、同じ東京女子医専を受験することになりました。偶然にも入試発表の日に二人は再会。その後共に医者となって、どうしたご縁か八十年近く二人は影のように寄り添う間柄になったのです。
山口高女では、女子医専受験希望者が他に二人(島本マサコさん、前田鳶子さん)あり、その中の新田蔦子さんのお父さんが東京の会社に勤めておられ、よく東京に行き来しておられたので、この方に連れられ私たち三人は、大正十二年三月受験のため山口駅を出発しました。
汽笛の音がシューと鳴った時、窓から外を眺めていた私は、思わずはらはらと涙をこぼしたことを今でも鮮明に覚えています。実はそれまで養父より、「もし、一回で合格しないような場合には諦めるがよい。」と言われていましたが、「医者にならないでは決して山口には帰らない、たとえ今回合格できなくとも、苦学してでも挑戦を続け、必ず医者になって帰ってくる」と深く心に誓っていたからです。
当時東京へは特急はなく、急行で二十三時間かかりました。私たちの乗った列車は、一、二、三等とありましたが、私たちの列車は勿論三等でした。席へ戻ると、新田の小父さんは「この三人の中で一人でも失格すれば、山口には帰れないな!」と言われ、私は一層しんみりしました。
合格発表は受験の翌々日くらいだったと思いますが、掲示板に自分の受験番号を見つけたときの喜びはいっぱいで、命拾いした気持ちでした。山口高女より受験した三人とも自分の番号を見つけ、私たちは抱き合って喜びました。新田のお父さんの喜びようも格別で「さあ小父さんが帝劇をおごってあげるからまあ電車に」と帝劇に連れて行って下さいました。その時の演題すらも覚えていませんが、初めて洋式トイレに入り使用に戸惑ったことだけが帝劇の印象として残っています。
関東大震災
私が東京女子医専に入学した大正十二年は、九月一日に関東大震災が起こり、数十万の人命が失われ、東京が焼け野原になった年でした。幸いにも学校は九月十日から始業になっていたので、震災のときは夏休み中で帰省していました。家族の者も運が良かったなと喜んでくれました。
十月初めになれば、東京も少しは落ち着いているだろうと上京することにしましたが、名古屋で汽車から降ろされ、三十分くらい徒歩で移動し、どこの駅から乗ったのか覚えていませんが、再び東京へ向かいました。中央線で新宿に着いても市内電車がないので、人力車で牛込河田町の学校に行きました。
学校の被害はさほど目立たなかったものの、私たちの寄宿舎の夜具は何もありませんでした。被災者に提供されたのかも知れません。その当時の悲惨な話はいろいろ聞かされましたがよく覚えていません。
東京女子医専での学生生活
青木さんを加え私たち四人はともに寄宿舎に入りましたが、当時の寄宿舎での食事は実に粗末なもので、いくらお腹はペコペコでも食堂に行くなり食欲を喪失する始末でした。それで時々私たちは、うどん丼、それも具のない素うどんを食べに町に行ったものでした。親子丼はとてもご馳走で時々しか食べられませんでした。
それで勉強ときたら毎日十時間の授業で、一ヶ月で大学ノート四冊分くらいにもなり、試験となると一週間も徹夜して暗記することもありました。当時の中学校と女学校とでは相当の学力の差があり、専門学校は男子中学から進むレベルでしたので、女子にとっては大変だったのです。
このような厳しい勉強と、寄宿舎での栄養状態の悪さから、途中で体調を崩して学校を中退したり、休学したりする人が必ずといっていい程いました。
私たちの中でも、まず新田さんが、次に私が、さらに青木さんまで結核にかかり、私は予科の終わり頃休学を命ぜられました。一年間の休学は許されたものの、それ以上になると再度試験を受けて、入学しなおさなければならないという規則でしたから、私にとってはかなり深刻な状況でした。
家に帰ると町原では、下の子供達への伝染を恐れて、家に戻ることは許されず、当時大島郡玖珂町の郡役場に勤めていた実兄の家に託されることになりました。兄夫妻は新婚早々でしたが、誠に優しく親切に迎えてくれました。当時結核の療法としては、今のような抗生物質もなく、安静と栄養、薬としては肝油ぐらいのものでした。おおらかな兄嫁は、食事にたいへん気を付けてくれ、私は見かけだけでもみるみる大変元気になっていきました。一ケ年の終わる頃にはすっかり元どおりの元気さを取り戻しましたが、なお微熱(三七・二度)だけははなかなか下がりませんでした。私は、意を決して町原に戻り「もうすっかり回復しました。復学します。」と申して再び上京、寄宿舎には戻らず、下宿し、自炊することにしました。
でもこれも厳しい授業には耐えきれず、困っていたところ、私より遅れて発病した青木さんも上京復学し、今度はお母様がついて来られました。それで、私は青木さんと二人、学校近くのあるお店の二階を間借りして、青木さんのお母様に食事の世話をして頂くことになりました。このようにして半年も過ぎた頃、青木さんの当時中学四年生になる弟さんが無断で家出し、東京の母上を訪ねて来られるという事件があり、お母様もそこでいろいろと考えられたのでしょう。年頃の子供達を三人も家に残し、父親だけにまかせて、母親が家を空けることは大変なことになると反省され、弟さんと一緒に帰郷されることになりました。
そこで今度は、私が町原家で一番私を可愛がって下さっていた、松子おばさんにお願いしてお炊事をしてもらうことになりました。というのは、運良くちょうどその頃、松子おばさんはお花の修業のため上京しておられたのです。こうした二人の下宿生活は一年も続いたでしょうか。とにかく二人はそろって昭和四年三月に東京女子医学專門学校を卒業することができました。なお、ただ一人結核にかからなかった島本マサコさんは、私たちより一年早く卒業され、小野田市にて耳鼻科医としてのスタートを切っておられました。
医師としてのスタート
その後、青木さんは九大眼科へ研修に行かれましたが、私は家庭の事情からすぐに就職しなければなりませんでした。ただ、就職まで約一ヶ月の余裕がありましたから、青木さんの眼科教授である庄司先生のご紹介で、当時の九大小児科教授池田先生のご講義や臨床講座を受けさせていただきました。
当時お世話になった教授の先生方はすでにご他界、お礼することさえしなかったのを後で気付き、冷汗の思いをしたものでした。
卒業はしたものの、未だ私の病気も完全には回復していませんでした。微熱は絶えず続いていて、この当時は別段よい薬とてあるわけでなく、栄養と休養が大事でした。私は就職先として、あまり忙しくなくて院長がなるべくよい指導をしてくださり、俸給のほうは生活出来る程度の病院を女子医專に選んでもらえるよう特にお願いをしました。そして、大分県立病院の院長が最近開業されたという「加用病院」を紹介していただいて、ここに就職することになりました。
入院患者は十二、三人で、外来もあまり忙しいという程ではありませんでした。院長は注射の要領まで教えて下さいました。はじめ私に説明しておいて「今、長尾婦長が十三号室で静脈注射しているから後ろに立って見ていなさい」と指導されたこともありました。その他、病院運営のことなどもよく教えて下さいました。
私は病院の前の清田という家の二階二間を借り、私を娘のように可愛がってくれていた町原家の松子叔母様を東京から呼んで、一年ばかり気楽に過ごしました。
青柳先生の求婚
それは突然のことでした。津和野高女時代に一年あまり英語と修身を習っていた青柳先生が東京からやって来られ、私に結婚を申し込まれたのです。
私の女子医専時代、青柳先生は津和野高女を辞め、東京の成女高等女学校で教えておられました。それで津和野高女の一年先輩で、当時東京遊学中だった寺井キネメさんに連れられて、私は二、三度先生のお宅を訪問したことがありました。実は寺井さんは青柳先生が好きだったようですが、一人では行けないので、私が付き合わさせられたと言う訳です。
そのような次第で、青柳先生との結婚など私には全く思ってもみないことでした。確かに津和野では立派な先生だと尊敬はしていましたが、十八歳という年齢差はあまりにも大きく結婚の相手とは思えませんでした。また、独りではまだ何も出来そうになく、結婚するよりも医学修業のほうが先だと思っていましたので、その時はお断りしました。ところが二ヶ月ほどしてから先生はまた来られたのです。どうやら叔母をいろいろと説得された様子でした。
私を一番可愛がって下さった叔母様は、私に「青柳先生は本当に立派でよい方のような。雪子さんは小さい時から町原家で気兼ねばかりして、本当に可哀想な子であったから、私はあんたが幸せになることをいつも願っているが、あんたもいずれは結婚をしなければなりません。青柳さんはまだ初婚だし、あんなにもあんたを気に入って、ずっと卒業するのを待っておられたのだそうだよ。年は違うけれどあの方は真に誠実なお人柄だから、あのような方ならあんたをあげてもよいような気がするよ。きっと可愛がって下さるに違いない」と懇々と言われたのです。そしてさらに「○○旅館に青柳先生はおられるので今日行って返事をしなさい」と言われました。
その日は五時に病院が終わりましたが、六月でしたので日暮れまでには充分時間がありました。私はすぐ指定された旅館に行きました。すると先生は待ちかまえておられて、すぐに部屋に通され、お話が始まりました。
「自分は将来このようなことをしようと思う」それは哲学というか宗教というか・・・、私は懸命に聴いていましたが、とても私の頭には難しく、なかなか理解できませんでした。
「この仕事をするには、今のように学校に勤めながら手鍋を提げているようなことでは出来ないのである、有力な協カ者が欲しいのだ。.この度帰省した時も、小串の繁冨の叔父(母方の叔父さんで元小学校長、定年後の当時は山口県豊浦郡小串町町長)が見合いをさせてくれた。帰省する度に、長男のお前だけがまだ結婚しないという法はないと、必ず見合いの相手を用意してくれているが、自分に協力してくれる人がいないのだ。叔父が『一体お前は 誰か思う人でもあるのか?』と言うので君の話をすると、『では早速話をつけて来るがよい』と言われたのだ」と言われて、私も全面的な自信はなかったのですが、叔母の言う含みもあって、自分の将来を考えてみました。当時私は自由な身になりたいばかりに、不自由に堪えて月給の三分の一は学資返済に当てていたのですが、一人前の医者になれば町原家の命に従い、郷里の小川に開業させられるのではないか?という不安を感じていました。
そうしたこともいろいろあって、「私に出来ることは協力しますので、先生はなさりたいことをして下さい」と言ってしまったのです。
この様ないきさつで、私は加用病院を辞めざるを得なくなり、院長に勇気を出して申し上げました。「私は今年の十二月に結婚することになりましたので、十一月一杯でお閑を頂けないでしょうか。私も代わりを探すことを心がけますし、先生もお願いします」と。
それから二ヶ月余りの後、私の後任に同級生の某氏が決まりました。私は大勇気を出して町原のお父様なる人に告げねばなりませんでした。叱られることは覚悟していました。
果たせるかな、「それは事後報告ではないか、恩知らず!」と。確かに言われる通りで私には返す言葉はありません。学資はおいおいなるべく早くお返しすることを誓いました。
青柳先生からは結納も来なければ何時結婚式をするということでもなく、十二月二十五日に独りで上京するようにとのことでした。青柳先生を信じ切っている私ではありましたが、当時津和野で表具師をしていた実父と一緒に上京しました。青柳先生は自分の言に反して父を連れて来たので少し不機嫌でしたが、父には親切にして下さいました。
翌日、新居の大屋さんに挨拶に連れて行かされて、翌々日、極く親しい友人夫妻を呼んで小宴をしただけで、ついに結婚式らしきものはありませんでした、それでも絶対的に青柳先生を信じている私はこれでよいのだろうと思っていました。実父も別に不満を言いませんでした。
兄弟のこと
ここで私の兄弟のことについて触れておきます。
母の死後、農家へ嫁いだものの出戻りとなった十歳年上の姉は、その後商家へ嫁ぎ、七十歳で平和な生涯を終えています。
兄は高等小学校卒の身ながら苦学して、私が結核で世話になった時は郡役所、次いで山口県庁に勤めていました。その間兄は独学を続け、高等文官試験(現在の国家公務員上級試験)にも合格。昭和十六年三月十日、時の内閣総理大臣近衛文麿氏より「仕高等理事官叙」の証を受けていました。私は偶然にも受賞の知らせが来た時に兄の留守宅に泊まっており、それを見せてもらって誇らしく感じたことでした。
戦時中、兄は朝鮮総督府に勤務しておりましたが、終戦となり、朝鮮の家を引き揚げる時には、「立つ鳥あとを濁さず」と、植えた物もきれいに取り、畑を整えて帰ったといいます。現地の雇人が「旦那様、必ず帰って来て下さい」と泣いて送ったとも聞いています。
私は兄を尊敬していました。他人のしない人の嫌がる仕事も、自から進んでする人だったからです。
戦後兄は、朝鮮より引き揚げて、郷里に近い田万川町の収入役を務めていました。その時、町役場の人員整理の任に当たり、「人の首を切る以上、自分の首をまず切らねば」と引き留められながらも率先して町の役員を退きました。このことは当時の新聞にも美談として書かれたと聞いています。
当時は、自家をまかなうほどの田も作っていました。農薬の配給があって、それを自分で扱っていたときに、防御はしていたのでしょうが、農薬の中毒から急性腎炎、尿毒症となって、五十四歳という働き盛りの生涯を終えてしまいました。
弟は、私が十歳のとき祖母の実家にもらわれてから、寺の小僧に出されましたが、後に自カで旧制の中学を卒業し、兄が勤めていた朝鮮総督府に勤務しておりました。しかし、結核にかかり三十歳という若さで亡くなってしまいました。
思わず自分の兄弟のことばかり書いてしまいましたが、私の実父は、お酒さえ飲まねば、本当に善良な人であったように幼時を省みて思うことがあります。
新婚生活
さて、懇望されての結婚でしたが、新婚生活は私にとって実に厳しいものでした。主人は、生徒の立場で見ていた青柳先生とは全く違っていました。齢既に四十を過ぎても勉強々々で、街に出れば丸善で本を買って来る人でした。
. 年が明けて昭和五年一月二日でしたか、本郷の主人の叔父(青柳登一氏)の家に年始かたがた私の紹介と就職のお願いに行きました。叔父様は「宗平、お前は今何をしているか?」と問われ、主人が「一ロには言えませんが、ある自分の計画のために勉強しています」と答えると
「四十にもなって一口に言えないなんてことではいけない」といかめしい面持ちでした。そして、私の就職のことをお願いすると、自分の病院へ来るようおっしゃいました。
私は早速、三月から主人の叔父の青柳病院に勤めることになりました。家は世田谷の羽根木だったので、京王電車で新宿に出て山の手線で東京駅に降り、八重洲口より歩いて五分の京橋二丁目にある病院へ通いました。朝は六時に起きて、朝食と昼食の仕度をして家を出る毎日でした。主人は、成女高等女学校の先生たちの研修をするために、週二、三回ほど通っていました。私には、三、四日おきに当直が廻って来ました。その時は夕食も用意して出て行きました。
あれ程に懇望されて結婚に踏み切った私でしたが、ことごとに主人の気に入られず、料理は下手、掃除も下手、早いばかりがよいのではない、何でも念入りにとか、客人が見えた後では言葉使いが悪い、不親切、喋り過ぎ、粗忽〈そこつ〉等と叱られることばかりでした。
先入観で先生というものを絶対的に尊敬していたものでしたから、いつも私が至らぬのだ、不躾なのだと、何とか主人の意に添うようにと懸命でしたが、どうも主人は私に対して幻滅を覚えているように見えて来ました。私の来るところではなかったと思い、もし主人がその気であれぱ、私はいまのうちに離婚すべきかとも考えました。
主人は毎日机に向かっていましたが、自分の仕事が進まなかったせいもあるのでしょう。あまりにも独身生活が長過ぎた主人にとって、結婚生活は思ったより煩わしいもののようでした。いつも何か考え込んでいる主人は、私にとっても少しも楽しいものではありませんでした。そんな時は、病院が私の避難所になっていました。
院長は大変私に好意的で、青柳病院では当時医局員は私を入れて女医ばかり三人でしたが、昼食の時には自分の膳のお料理からおいしそうな物ばかり三皿ほど下されました。私たちは三皿をどれも少しずつ分けて頂戴しました。昼食がすんで午後の外来があるまで一時間ばかり、院長の専門である脳神経系病に関する講義を独語の原書で教えて下さいました。
かような状態で青柳病院は大変居心地が良かったのですが、もし離婚となれば、夫の親戚であるこの病院にいつまでも居るわけにもいきません。私は当直が済んでも一週間も帰らずにいる時もありました。そんな時、主人は、郵便物が来ているからと、わざわざ病院にやって来て「いつ帰るんだ」なんて言うところをみると、まんざら離婚する気でもないのかとも思い、強いて私の方から離婚しようとは思わなくなりました。
長男の誕生
そうした不安定な生活が三年も続いている間、昭和九年三月頃のこと、どうもつわりのような気分を感じました。時々むかつきを覚え、食欲もすっかり落ちてきました。下腹部を触れてみると拳のような固りがあり、確かに妊娠と自覚しました。主人に報告したところ、はじめはあまり嬉しそうでもなかつたのですが、次第に機嫌がよくなり、当惑の気分ものぞかせました。
まず第一に私は女子医専の先輩であり、銀座に開業しておられる中村身加栄博士の診察を受けることにしました。妊娠初期二週でした。十二月末まで私は病院勤めをしていましたが、それまでつわりを押して一日も休みませんでした。当時は袴をはいていたので、月が進んでもお腹はあまり大きくならず、気付く者は院長くらいなようでした。
病院を辞するまでに、院長は赤ん坊に必要な一切合切、ふとんまで世田谷のわが家に送り届けて下さいました。
年が明けて昭和十年一月二十一日、朝より陣痛らしきものが始まり、主人はタクシーを呼び、かねて約束してあった中村博士の病院へ入院しました。私が満二十九歳、その頃としては高齢出産のほうで、お産は長引くとのことでした。次第に苦しくなり、陣痛二十四時間の後、会陰切開などをして二十二日午前九時、ようやく赤ん坊が新生の声をあげました。とても元気な声でした。
産湯をつかわされ、おくるみに巻かれて自分のベッドの側に寝かされたその赤ん坊を見た瞬間、私は何か神々しい神からの賜物であるかのような神聖な物に触れた心地がしました。その時の感慨を忘れることはできません。私たち夫婦は掌中の玉のように、この子をもしも取り落としたら、決して再びは与えられないような気がし、今も私は長男に対しては、次男、三男に対するより何か一種の遠慮を覚えるのです。
主人も四歳にして母を失い、異母の兄弟は女系も合わせて五人もいたのですが、自分の母の血を引く者はこの子のみであるとして母の名の「龍」をとり龍平と名付けました。
龍平はよく病気をしました。すぐに不消化便を出して湿疹を病み、風邪もよくひきました。私はすぐさま母校の病院に駆けつけたものです。
小串で開業
昭和十年の六月十日だったと思います。小串町(現在、山口県豊浦郡豊浦町小串)に住む主人の母方の叔父、繁富松一氏から、「小串には老医二人きりで、往診して貰う医者がなくて皆が困っている。どうか小串に来て開業してくれないか」との強いての願いがあり、私達は小串に一度帰りました。繁富家の前には道路を隔てて松一叔父の姉が嫁いだ石光家があり、当時はこの人が未亡人として住んでいましたから、その離れ家に私達はしばらく落ち着くことになりました。
松一叔父が既に用意して下さっていた医院として開業すべき家を、主人と共に少々手直しして、昭和十年七月に入ってから開業しました。お手伝の娘さんも三人揃え、家事、子守り、私の医療の手伝いをしてもらいました。
開業当初から患者さんが詰めかけ、仕事はかなり忙しかったです。しかし、主人はやりかけの仕事がここではできないと、再び東京の家に戻って行きました。
それから六ケ月も経った頃、龍平は風邪から急性肺炎を起こして瀕死の状態になってしまいました。主人には電報で急遽帰ってもらい、私はかけがえのない主人の大切な子供を死なせてはいけないと、懸命の看護でようやく解熱し、命をとりとめることができました。それ以来、主人も留守をすることに不安を覚え、東京から本気で引き揚げてきました。
ところが、主人は何事も綿密に行き届かなければ気がすまない潔癖症で、子守や女中のすることがことごとく気に入らず、それは私の躾が悪いのだと叱り、私にすら守り難いことを要求するので、最初は「使って下さい」と殺到した娘さん達も、「青柳さんはとても難しい家だから、普通の者はとても勤まらないよ」と評判になり、なかなか人が求められなくなってしまいました。中には、本当によく働いてくれて、料理も上手で気立ても良い娘さんもいましたが、主人にしてみれば仕事が粗いということで、どうしても「やめさせろ」と言って仕方なく暇を出しこともありました。私は今でも、その人がもし生きていれば、お詫びに行きたいとさえ思っています。
こういうふうで、私は使用人にいつも困り抜いて、赤ん坊をおんぶしながら診療をしたこともありました。そんな母の苦労を知ってか、長男の龍平も、遊びに出る時はよく弟をおんぶしてくれましたし、よくお使いにも行ってくれました。
使用人が長続きしないために、主人も子供の世話に随分時間をとられていました。私は家の中はいつもかけ足で、朝六時に起きるなり、日が暮れて夕食し、床に就くまで本当に坐る暇はありませんでした。昔は疫病で引きつけを起こす子供が多くて、食事中でも往診せねばならず、子供に乳をふくませていても急に離して出て行かねばならないこともありました。ある雪の降る夜往診から帰って、子供らが目を覚まさぬように、そっと別の床に入ろうとすると、五歳になって間もない次男の象平が「おかあちゃん寒かつたろう!」と言ってくれました。私は思わず涙ぐみました。「ようし、私は子供達が成人するまで絶対生きてゆかねばならない!」と痛切に思ったのでした。
湯玉で開業
昭和十九年、私どもが借りて開業していた小串の家の家主さんがその家に帰りたいので空けてくれということになりました。小串の人達も別の家を吟味して下さいましたが適当な家がなく、おりしも隣村の湯玉で石川先生というお医者さんが召集で、「是非私の跡に来て下さい。たとえ凱旋しても私はもう医者をする気はないので、半永久的な気持ちでどうぞ使って下さい」ということでした。私はその家をそのままお借りすることにして湯玉に移りました。
その時、次男の象平は小学校に就学する年齢でしたので、湯玉の学校に入学しました。
ところが主人は、「湯玉では落ち着いて勉強することができない」と言い、約十キロ離れた田部(現在、豊浦郡菊川町田部)の生家に子ども達を連れて帰ってしまいました。そのようなわけで、私が湯玉で、主人と子ども達は田部に別れて住んで、家族はたびたび両方の家を行き来していた時期もありました。
昭和二十年八月十五日、はからずも日本無条件降伏の玉音放送があり、これから一体日本はどうなるのであろうと皆で心配しておりました。特に、お嬢様を二人も持っておられたお隣の石川さんは、アメリカ兵が上陸してきたら、どんなことになるのかと大変心配されたことでした。
しかし、格別何も起こらず、世情も次第に落ちついてきました。電灯も安心してつけられるようになりましたが、やがて私のいる湯玉にも続々と戦病人が診察にやってきました。その中には、結核末期まで下関の病院に勤めて帰って来た看護婦さんもおられました。その人は、わずか二十三歳位の若さで死んでいかれ、その哀れさは今も忘れることが出来ません。
また、焼夷弾で顔から首に大火傷して帰って来た人には当時思うように消毒薬もなく、何とか化膿させないよう治療しなければと色々工夫をこらし、毎日ガーゼの交換に往診し、薬としてはせいぜいサルファ剤くらいの物だったので、服用させたり、サルファ剤の粉末をすりまぜた亜鉛華油の塗布を試みたものでした。でも、不思議なことに、眉もなかった恐ろしいような顔が次第に乾いて来て、私は毎日毎日治っていくのが神の助けのようにさえ感じられ、有り難く思ったことでした。
火傷をした看護婦さんのこと
先の焼夷弾で火傷した看護掃さんの顔は眉も生え、ほとんど傷は癒えていましたが、他の皮膚と比べ赤褐色で物凄かったです。その後どうなったものか解らず、あの皮膚の色さえ元に帰れば儲けものと思っていました。ところが、その年の夏にも正月にも、それから毎年々々の正月と暑中見舞に、懇々と彼女から丁寧な礼状が来るのです。彼女はその後、志を立てて上京、明治大学に学び、卒業後は中学か高校の先生になっていると噂に聞いていました。
ある時彼女から「是非一度先生にお会いし、親しくお礼を申し上げたいので、ご上京の時をお知らせ下さい」という手紙をもらいました。二十年近く前のことでよく覚えてはいませんが、五月の連休に東京駅で降りて、千葉の息子の家へ行くことを知らせました。ところが彼女は横浜から私が教えた列車に乗り込み、東京駅までついて来て、積もる話をしました。見れば皮膚は他と少しも変わっていません。眉は黒々とあり、とても火傷した顔とも思えない程でした。それには私も驚いて、「貴女、植皮しましたか」と問うと「いいえ先生に治して頂いたままですよ。毎日汗を拭いて治療して頂き、うじのわいた私の火傷を毎日ガーゼ交換して頂いたご恩は忘れることはできません」と言うのです。
信じられない、よくもよくもこのような立派な皮膚に治ったことでしょう。このことから、随分強度の火傷でも化膿さえさせなかったら、後に傷を残さず治せるものだという自信を得ることができました。
この火傷治療は、その後の彼女の尽力によって、私には全く思いもしなかった昭和六十一年十一月の「山口県選奨」の栄に浴したきっかけとなったのです。もう一例、私はひどい火傷を治した患者さんがいました。今どんなふうになっているか是非確かめたいと思っていますが、その人は遠く離れた島に嫁しているそうで、残念ながら音信不通です。
田部での開業
さて、出征される時に医院を私に譲られて、坊ちゃんのことを頼まれ、帰っても医者はしないと言われた石川先生も、敗戦となり、朝鮮に大財産を持たれていたのが水泡に帰したので、生還されても医業を続けざるを得なくなりました。そのようなわけで、またまた、私はそこを明け渡さざるを得なくなり、昭和二十一年二月末、湯玉を引き揚げ、主人たちの居る田部のわが家に帰ることになりました。
湯玉も私には、決して居心地が悪くはありませんでしたが、前記の事情で家をお返しせねばならず、主人の弟の岸田保男さんに加勢してもらって湯玉の家を片付けました。そして主人の生家なる田部の家に引き揚げ、種々改装して小児科・内科医院を昭和二十一年四月より開業しました。
開業はしたものの、当時食料事情は最低で、食べ盛りの三人の男児を持つ私たちは大いに困り、主人はよく遠くまで さつまいもを買いに出かけたりしたものです。困ったあげく、川島というかつての小作の人より、三反ほど返してもらい、主人は当時十二歳の長男龍平を相手に農業をすることになりました。
それまで農業をしたこともない主人でしたが、よく勉強し自分の農法で米作りを始めたのです。また、山の一部を開墾して畑にし、サツマイモを作ったりもしました。このように主人にとっては、自分の目的の勉強のほうへは振り向く閑もない状況でした。
当時長男の龍平は新制の豊東中学校に学んでいましたが、登校前必ず草刈りをし、天秤棒の前後につけた平たい籠に一杯入れ、前後二回計四杯の草を我が家にあった二つの蔵の一つである下の蔵に積み、それを済ませてから学校に行っていました。彼のゴツゴツした医者に似つかわしからぬ手を見る度に、当時の事をありありと思い出します。そのようにして龍平が集めた草に主人は下肥をかけ、堆肥を作ったものでした。
眼科を始める
戦後しばらくの生活は、全ての日本人にとって極めて厳しいものがあり、前述のとおり主人も自分の研究は捨ておいて、食料確保のために農業を始める始末でしたが、医業を営む私にとっても、田部での開業には厳しい現実が待ち受けていました。と言うのは、当時人口五千にも満たない小さな村に約十軒もの医院があり、人口に対し医師過剰の状況となっていたからです。これは、戦時中軍医として戦地にいっておられた方々が、敗戦後復員して開業されたためで、現に我が家のすぐ近くにも、復員された方々が「新田医院」や「田部医院」を開業されました。
このような状況の中、私の医院でも一日に一人の患者さんも見えないことがあり、夕食の魚を買うお金にも困る様な有様で、患者さんの確保が死活問題となりました。私は医師の少ない近隣の町、下関市安岡町への転院のお誘いを受けたりもしましたが、これに対して主人は「おまえは淘汰されるのか」と大反対でほとほと困り抜いていました。そこで私は、それまでにも困ったときにはいつでも相談に乗ってもらっていた親友の青木初子さんを訪問しました。彼女は北九州の八幡で眼科医院を開業していましたが、当時一緒に住まわれていたお母様より、「青木眼科で研修し、眼科を開業したら」と勧められたのです。以来私は毎週一回、約半年間青木眼科で研修することとなりました。その日は当然のこととして青柳医院は休診日となったわけですが、これについても、青木先生のお母様は「眼科研修のため休診します」という表示を掲げるようアドバイスされ、お陰でその後眼科を開業した際には、はじめから何人かの患者さんがあり、本当に助かりました。
このように青木初子さんのお母様には、東京女子医専当時初子さんと共に賄いをして頂いたことをはじめとして、医院を開業後まで大変お世話になりました。
このような次第で、私の医院経営も何とか窮地を脱したわけですが、時を同じくするがごとく、戦後の日本経済も次第に立ち直り、米や野菜も自由に買い求められるようになってきましたので、何時の頃よりか主人も農業をやめ、田圃も売却してしまいました。
その後、子供達もそれぞれ成長し、長男は医師に、次男は化学の研究者に、そして三男は海上自衛隊のパイロットへと、それぞれ自分の好きな道へ進み、また、それぞれよき伴侶にも恵まれましたので、私も次第に肩の荷が軽くなってきて、心おきなく医療に専念することができるようになりました。戦後、お手伝いさんについては、住み込みをやめて通ってもらうようにすると共に、医業を手伝う者には家事を一切させないようにしたので、長く勤めてくれるようになりとてもよかったと思います。
主人の他界
昭和四十四年大晦日の日、山口日赤病院勤務中の龍平が、初めて借家ながら一家を整えたので、両親を呼んで山口の自分の家で年越しするようにと迎えに帰ったのですが、主人はその時になって「自分はどうしても行きたくないので、お前代表して一人で行ってくれ」と申して動かず、仕方なく龍平夫婦は私だけを連れて山口へ立ちました。
その前私は龍平に主人の血圧を計らせなどしていましたが、異常はありませんでした。 山口に着くなり龍平は家に電話をしましたが「自分は淋しくない、犬のタローがいるから」とのことでした。それで私たちは、元日を山口で過ごし、翌二日、島根県益田市の町原家に、当時前立腺癌を患っていた養父(虎之介氏)を見舞いました。
帰途津和野から龍平は、田部の我が家に電話したのですが主人は電話に出ず、年賀状書きで恐らくまだ朝寝をしているのだろうと勝手に納得し、また山口で一泊しました。
翌三日朝田部に帰ってみると、郵便受け一杯に新聞と賀状が押し込まれたままであり、ふと不吉な予感が私の頭をよぎりました。電灯がついたままの風呂場に走ると、無惨や主人は水道も出しっぱなしで風呂桶に浮かんだままでした。頬も赤らみ生きているような顔色でしたが、身体は冷たく息は途絶えていました。何とも申し訳ない気持ちで私は呆然と立ちすくみました。八十二歳の老人を一人残して山口に泊まったことに、私は、我が不行き届きをひどく後悔したことでした。
死因は、私には分かりませんでしたが、平素長湯の癖があり、二、三年前も妹の宮川かつのさんが長湯して、亡くなったことを思いました。龍平は母校の山口医大にお願いして解剖してもらいましたが、内臓に故障は見つかりませんでした。執刀された教授から「生前きれいな空気を吸っておられたのでしょう。真に肺がきれいで、若者のようでした。」と言われ、生前主人が風の方向まで確かめて掃除するほどの潔癖症であったことを思いました。
昭和四十五年一月三目、主人が他界した時は長男龍平は既に二人の子供を持っていました。次男象平と三男亀平もそれぞれ結婚し独立していましたから、主人も自由な身になれるところでしたが、考えてみれば主人は、戦時中の食糧難に、今までやったこともない田作りをしたり、母親の私に代わって子育てをしたりして、本当に苦労続きでした。これからというところで命を終わってしまって気の毒な人です。自分の高い理想を持ち、それを果たすでもなく逝ってしまったのは残念だったに違いありません。病死でなく突然死であったことが、主人にとってはせめてもの救いだつたでしょう。
非凡とも言える才能を持って生まれながら、あまりにも物事に念が入り過ぎて時間を費やし、過度の潔癖症ということもどれ程大事な時間を一生の間に無駄にしたことであったでしょう。主人のような特殊な性格の持ち主には結婚生活や家族というものは煩わしいもので、生涯独身を通すべきだったのかも知れません。彼のために私はいかにも惜しく気の毒に思うのです。
一人の生活
主人との死別当時、私は六十五歳で何事も心得ていなくてはならない年齢でありましたが、元々自分の師であり、十八歳も年上の主人の意のままに従ってきた人生でしたので、暗夜に灯火を失ったごとくに、何事も分からず、一人で生きていけるだろうかと不安に襲われながら、一年か二年が過ぎました。
この間私は、何となくぼんやりと医者を続けていましたが、子ども達はそれぞれしっかりと独立しているし、次第に不安な気持ちは影をひそめ、むしろ解き放たれたようなフリーな気持ちに変ってきました。それで、友人の誘いに応じては旅行などもするようになりました。また、字の上手な主人を失って「ご仏前」「お祝い」等何とも情けない幼稚な我が文字を直そうと、まず習字塾に通い、その他、詩吟、短歌、俳句と思うがままにいろいろな勉強に励んでいきました。まさに、七十の手習いです。
このようにして、医者という本業と共に大いに余生を楽しんできたのですが、平成十年初頭それまで美祢市立病院内科医長だった孫の俊平(龍平の長男)が帰ってきて、龍平の青柳内科を助けるようになったので、これを好機として私は医者をやめ、全くフリーの身になりました。
折しも右目が黄斑変性症のため見えなくなり、左目にもその兆しありと言われてはいたのですが、あまり支障も覚えませんでしたので、私は好きな裁縫をよくしていました。ところが、次第に目の不自由さを覚えて、二年前から急速に左目の病勢が進み、新聞雑誌等一昨年初めより全く読むことができなくなってしまいました。今では、世の中全てが深い霧の中といった感じで、人様の見分けもできず、自分で書いた大きな文字さえ見えなくなってしまいました。
新聞雑誌はもとより、自分宛の来信物、電話かけ、貯金通帳の処理等全てが人頼みの有様で、悲しくなってしまいますが、まだ、食は人並み、手足は鈍いながらも用足しには困りませんので、白寿を迎えた身としては、不服は言えないと思っています。ですから、せめて残された手先で何か役立つことをやりたいものと考え続けている昨今です。
子や孫のことなど
有り難いことで、私の子供達はそれぞれ結婚し、子孫にも恵まれています。現在私には、三人の息子とそれぞれの妻のもと、七人の孫と八人の曾孫がいますが、いずれも健康に恵まれスクスクと育っています。百歳に近い老人にとって、後に続く家族の死に目に会わずに済んだと言うことは、何という幸せであろうと感謝せずにはおられません。私だけが、このような恵みを受けていて本当にいいのでしょうか。亡き主人に申し訳ないような気さえしています。
私は、主人を失って以降、何でも自分の好きなようにできる環境におかれておりますが、日々の生活のモットーとして、「自分を慎む」ことを心がけています。中でも食事については、健康維持のために食べ過ぎないこと、いわゆる「腹八分」を守っています。もっとも、息子達からはいつも「それで腹八分かね。」と年をとっても普通の人に劣らない食事量を冷やかされます。最近は横になっている時間がめっぽう増えましたが、不思議なことに食欲だけは、全く衰えません。それどころか、今の私にとっては、三度の食事がいちばんの楽しみとなっています。何も生産的なことができず、食べては寝ての毎日は、私のこれまでの人生にはなかったことで、いつも「こんなことでいいのかしら」という、脅迫感にも似た心に苛まれていましたが、最近ではそのような気持ちも少しずつ薄らいできました。いずれにしましても、子や孫達の手をできるだけわずらわせないで、お迎えを待ちたいと願っており、そのためにも毎日三〇分~四〇分の散歩だけは、今も続けています。
それでは最後に息子達の現状について、三人から報告させます。
母の白寿に寄せて 長男龍平(六十九歳)
母は平成十六年一月十八日で満九十八歳、数えで九十九歳即ち白寿を迎えることができました。とてもめでたく息子として有り難く思っております。
母は幼時よりさまざまの苦労を経験してきましたが、持ち前の辛抱強さでこれを耐え、我々三人の子供を育ててくれたことを感謝しております。母が六十四歳の時、父が亡くなりましたが、その後は我が道を行くという日々で内科、眼科、小児科を開業する傍ら色々な趣味や旅行を楽しんでおりました。母が八十歳を過ぎたころ私たち一家は母の家の裏に家を建て母のそばで暮らすようになりました。そのうち田部の診療所は閉じ岡枝の私のところで、私や息子と一緒に九十歳を過ぎてもしばらく診療をしておりましたが、視力がしだいに低下して来ましたので、診療を止め悠々自適の生活が始まりました。田部では江木さんをはじめ多くのお友達や近所の方々に助けて頂いて、散歩や歌会を楽しんでおります。しかし、視力障害がかなり進行して日常生活に支障が出ましたので、昨年四月から岩本テルエさんに来てもらい朝から昼過ぎまで手伝いをしてもらっております。また母は末弟の亀平の居る長崎県の大村に時々行って大村での生活も楽しんでおります。
私は昭和四十九年の六月に岡枝で青柳内科医院を開業し、おかげさまで今年六月に三十周年を迎えます。これも母を始め地域の皆様のご支援のお陰であると感謝致しております。平成十一年息子が帰り、増築を何度かした今までの診療所は狭くて不自由なので、昨年から二人で診療できるように診療所を新築し、CTなど医療器械も新しく入れて、五月からそちらへ移ることにしております。念願のバリアフリー化も取り入れましたので、きっと地域の皆様に喜んで頂げるものと考えております。また、平成十一年より杜会福祉法人菊水会を設立し理事長として特別養護老人ホームを開設、デイサービスやグループホーム等、昨年からは心身障害者のお世話もするようになり、妻は法人の理事として施設長として毎日勤務しております。
わが家は一男二女の子供がおり、幸いにも皆結婚して独立し今は妻と二人になりました。長男の俊平は上田部に居を定め一男一女に恵まれ、毎日私と一緒に診療しております。長女の雅子はコンピューター関係の会杜に勤務する人と結婚し一男をもうけ東京で暮らしております。次女の真理子は医師となり内科医師と結婚し一女に恵まれ宇部に注み、今は小野田日赤病院に勤務しております。
このように私は父母のお陰でどうにか幸せに暮らしております。
母は三人の息子、七人の孫、八人の曾孫を持ち、これからも曾孫の数が増えることと思いますが、長生きをして曾孫が増えるのを楽しみにしてほしいと願っております。私たちも健康に留意し母より先に倒れて、母を嘆かせないように努力しなければと思う日々でございます。
次男、象平(六十五歳)
三十年あまり勤めた千葉大学工学部ですが、定年退職をこの三月に控え、後片付けなどに追われる毎日を送っています。「何を何時までにやらねばならない」と言う束縛から解放される楽しみと、「研究をまだまだやり足りない」と言う気持ちが交錯しています。いずれにせよ、研究室の大学院生中三人にとっては、課程の半ばに私が退職することになるので、他の先生に引き継がれはするものの、無事修了するまで、あと一年間はアドバイス等、週一回位は大学に出入りすることになりそうです。
学生時代は有機化学を学びましたが、その後一時は生化学、また長いこと写真用ゼラチンを手がけ、数年前から研究を環境化学へシフトさせて来ました。そもそも、どうして研究の道を選んだのか、やはり、家庭環境によるところ大であったと思うので、この際、振り返ってみたいと思います。
父は哲学の出身で、本来、実践的宗教学者たるべき人ではなかったかと私は思うのですが、自然科学にも理解が深く、蔵書を通じてなど、少年の私に科学への関心を芽生えさせたように思います。母の職業も明らかに自然科学に基づくものであり、少なからぬ影響を受けたことは確かです。誰もいないとき、診察室に忍び込み、色々な器具や薬品に見入ったこともありました。また兄は、当時は真空管式でしたが、新しいスペックのラジオを次々に組み立てて楽しんでいました。「電波少年」であるばかりでなく、何でもよく知っていたので、私は兄から色々教わり、理科では級友のリーダー格でした。そんなことから、小学校を終える頃には、科学者になりたいと思うようになりました。他方、幼い頃から「金持ち」なりたいという願望がありました。子供の頃の私には、「医者は(概して)裕福」という観念は全く無く、それどころか、診察と家事で息つく暇も無い母を見るにつけ、医者にはなりたくないと思ったものです。と同時に、母の過労を心配し、気遣いすることもありました。これは、父には快く映らなかったようです。その辺りについては、私にとって、父は同時に反面教師でもありました。高校時代には、自分の進む道は化学に絞られて来て、大学では化学を専攻しました。その頃には目標は、「研究者であり、先ず、家族を養えること」で、「金持ち」の夢は忘れ去っていました。卒業後も、大学院まで出られたのは、母の懸命な支援と、家族の暖かい理解に外なりません。
さて、私の家族について、四歳下の家内は私と結婚すると同時に家庭裁判所を辞めていましたが、十年ばかり前から、家事・民事調停委員(非常勤)を勤めています。ストレスを感じながらも、七十歳位までは続けるつもりのようです。長男は、親とは全く異なる方向、体育大学で修士を終え、七年前、千葉県警に就職しました。レインジャーを経て最近、警察の学校で優等生になり、親を喜ばせてくれました。但し、三十三歳ながら、未だ相手を見つけるに至っていません。長女は、数学科を卒業後、一旦就職しましたが、五年前、燃料電池を開発している技術者との結婚を機に退職し、今は二児(三歳、一歳)の母として、普通の生活をしています。時々、一家で私共の住む四街道の家へ来て、孫の相手をさせてくれます。
こんなことで、私の目標は一応達成されたことになるのかもしれませんが、母がしてくれたことの大きさを思うと、自分の役割が、いかにもささやかに過ぎるとの思いがします。ただ、退職を以って私の仕事の全てが終わるわけでもないので、母には出来る限り長生きをして、見守っていてほしいと思っています。
三男、亀平(六十一歳)
平成十年四月、三十二年間勤務した海上自衛隊を定年退職し、妻と二人で長崎県大村市に移り住んでおります。大村市は、長崎県の中央に位置し、美しい自然と温かい人情に包まれた人口八万の地方都市です。現役の時代、航空隊司令として二年間勤務したことが縁となって、私たちは大村市に永住するようになりました。
こちらに来て五年間は、隣接する諫早市にある長崎ウェスレヤン短期大学に勤めておりましたが、今ではそれも辞め、自宅で英語教室を開いております。また、私たち夫婦は、十五年ほど前から社団法人倫理研究所の提唱する「日本をよくする倫理運動」に参画しておりますが、当地に移り住むようになって以降は、長崎県内全般に倫理運動を普及すべく共に頑張っております。
父が晩婚であったために、私は父が五十四歳の時に生まれました。父は老い行く自分のことを思い、この子に何か将来役に立つことをしてやらねばと思ったのでしょう。三男である私に対し、父は小学校低学年から厳しく英語を教えてくれました。その時は、父の心が分からず、嫌々していた勉強ですが、その後海上自衛隊でパイロットになり、また情報幹部として英語を駆使しなければいけない立場となり、さらに退職後は英語教師として生活している今日、父が与えてくれた財産に心から感謝しています。
母の手記の中で、あえて父のことを述べましたが、厳しさあふれる父と、大地のように全てを受け入れてくれる母とは実に好対照であり、そのような両親あっての自分と、心から感謝している次第です。
私たち夫婦の間には二人の子供がいますが、両方とも関東に住んでいます。長女恭子(三十三歳)は三年前結婚し、電子部品メーカーに勤める優しい夫との間に、二人の子供に恵まれています。長男恭平(三十二歳)はまだ独身ですが、地震の研究者として、千葉県我孫子市にある某研究所に勤務しております。
長男の結婚が残っているものの、私の家族はいずれも健康で幸せな生活をさせて頂いております。これも父母を始め、先祖のお陰と感謝している次第です。そのような先祖を代表して、母が元気で白寿を迎えようとしていることは何という幸せでしょう。
大村の我が家には、母の部屋もあり、何時でも迎え入れる準備はできているのですが、
いつ来ても二週間もすると退屈がり、田部に帰りたいと申します。やはり田部は亡き父と長年を過ごした場所であり、兄の家族や友人達も多いのでそうなるのだろうと、理解できるのですが、いつも、もう少し長くいてくれたらいいのにと思っています。もっとも、日々の仕事に追われて、折角来てくれても、共にゆっくりと時間を過ごすことができない自分達が悪いのですが・・・。いずれにせよ、これからも長く生きて、大村と田部の間を何度も往復してくれることを願っています。